風間家の祖

979年(天元二)
風間氏は、日本士族の一つ。信濃国水内部の式内社である風間神社に派遣された諏訪一族が風間姓を名乗ったのが発祥とされます。

1680年代 武士から商人へ
新発田藩新津沢海藩の家臣であった風間新五兵衛が、藩主交替の折、浪人となって村上小町に住む。
商家としての風間家は、倅(せがれ)彦市が小商いに乗り出したことに始まる。新五兵衛の妻方の「宮川」姓を屋号として宮川屋彦市と名乗りました。

1720年前後
彦市の息子、兄彦次郎は太物類を中心に行商し、弟十助は太物・小間物・両替商など店商いに精を出し、宮川屋を全体として盛り立てることに成功しました。

1725年(享保十)金屋誕生
兄彦次郎は、兄弟の競合を避けるため村上を離れ、酒田に移り、彦惣と改名して店を構えました。その際、「京都二条通金屋市右衛門出店彦惣」を名乗って薬種店を営みました。のちに鶴岡風間家が「金屋」を用いることになる由来です。

1754年(宝暦四) 鶴岡風間 初代幸右衛門生まれる
二代彦惣(後に彦助と改名)の娘(おそよ)が初代幸右衛門の母です。
二代彦惣が、娘おそよと孫の幸右衛門が一応社会的には独立して分家として遇するよう財産を分与します。

1779年(安永八) 鶴岡風間家の創業
9月29日 宛名が「五日町/金屋幸右衛門殿」なる土地年季売り証文。鶴岡初代幸右衛門がこの年に改名、分家したという伝承を根拠に、この年を風間家創業の年と定めました。
初代幸右衛門は、酒田の金屋彦助家の資金力と「金屋」という商家の信用力を背景として、当初から鶴岡城下とその周辺を販売市場とした呉服・太物・古手など呉服関連商品の商いをしました。特に、武士層、上層の町民・農民を顧客としていました。日本海沿いに品物を運ぶ廻船問屋を経由して、京都・大阪から仕入れをしていました。

1822年(文政五) 御用商人
酒井家より「御用達」を仰せつけられる。荘内藩酒酒井家が「御上洛」した際に三十四両余りを負担した功績により仰せつかることになったと思われる。

1829年(文政十二) 長者番付最上位
この年の鶴岡長者番付表である」「鶴亀宝来見立」をみると、その最上位に名を見出すことができます。

明治

1894年(明治二十七)
六代目幸右衛門没 長男保次郎が七代目幸右衛門を襲名。以後、風間家の蓄積基盤は地主経営・証券投資・金貸業を軸にし高蓄積する。

1896年(明治二十九) 丙申堂完成
五日町より馬場町へ新家屋移転(現在地)

1910年(明治四十三) 釈迦堂建立

大正

1917年(大正六)風間銀行改行
貸金業はその後「風間銀行」となりました。昭和16年に当時の国策もあり、銀行4行(国立第六十七銀行、出羽銀行、鶴岡銀行、風間銀行)を合併し、「荘内銀行」となりました。現在の地銀「荘内銀行」の前身の一つであります。
建物は、店舗兼住宅として使われました。

昭和

1932年(昭和七) 財団法人克念社設立登記

1941年(昭和十六)荘内銀行 誕生
風間銀行25年の歴史を閉じる。

1946年(昭和二十一~昭和二十三)
東京大学印度哲学科花山信勝先生他を招き、聖徳太子や浄土真宗についての講演会を開きます。

1945年(昭和二十二~昭和二十七)
和洋裁縫学院を開設し、女性教育の充実をはかりました。

1948年(昭和二十三)
八代目幸右衛門、荘内銀行の頭取に就任

八代目 風間幸右衛門(嘉一郎)、妻 風間梅子、九代目 風間眞一

風間家のアルバムより

たくさんの写真がアルバムに大切に残されています。
そこには、家族の記念写真だけでなく、風間家で働いていた多くの使用人や大工さんの姿も写されています。子どもが生まれると専属の「女中」さんが雇われ、大事に育てられていました。一緒に海水浴に出かけた写真もありました。皆、大家族のように日々を過ごしていたようです。