風間家の祖
979年(天元二)
風間家の祖 は、越後国沢海藩(現新潟県新潟市沢海)の武士でありましたが、商人となり、村上(新潟県)、酒田(山形県)を経て、鶴岡には18世紀後半に移住したと伝えられています。
鶴岡風間家の初代は、安永8年(1779年)幸右衛門を襲名。
酒田の本家から「金屋」の屋号を与えられ分家自立しました。
その後、安永8年(1779)鶴岡城下で庄内藩の御用商人として、呉服、太物屋を営み、幕末には鶴岡第一の豪商となりました。
明治
貸金業に転じ、庄内地方では酒田市の本間家に次ぐ大地主に成長し、鶴岡の産業振興に力を注ぎました。
大正
貸金業はその後「風間銀行」となりました。昭和16年に当時の国策もあり、銀行4行(国立第六十七銀行、出羽銀行、鶴岡銀行、風間銀行)を合併し、「荘内銀行」となりました。現在の地銀「荘内銀行」の前身の一つであります。
建物は、店舗兼住宅として使われました。
昭和
昭和21年~23年
東京大学印度哲学科花山信勝先生他を招き、聖徳太子や浄土真宗についての講演会を開きます。
昭和22~27年
和洋裁縫学院を開設しました。
風間家のアルバムより
たくさんの写真がアルバムに大切に残されています。
そこには、家族の記念写真だけでなく、風間家で働いていた多くの使用人や大工さんの姿も写されています。子どもが生まれると専属の「女中」さんが雇われ、大事に育てられていました。一緒に海水浴に出かけた写真もありました。皆、大家族のように日々を過ごしていたようです。